白鳥廃寺: 湊山下
白鳥廃寺の開基については詳しい事はわかってはいないが、白鳳時代仏教が蘇我氏の布教活動や朝廷への働きかけにより、政策として朝廷が各支配地に寺を建て布教が始まった。蘇我馬子は「飛鳥寺」を、聖徳太子は「四天王寺」を建立。その後、天武天皇・持統天皇と続き各地に官営の寺を建てていった中で、讃岐には白鳳から飛鳥時代にかけ28カ寺が建立されたといわれ、発掘調査から規模が大きく、そのうちの一つとの見方が有力である。時代的には7世紀中ごろから後半にかけてできたと思われる。発掘された瓦が白鳳時代から平安時代後期のものまであることから、684年の白鳳地震(記録されている最初の南海地震)により、瓦が大量に落ち葺き直したと推測されることや、数世紀にわたり存続したことによるものと思われる。これが正しければ東かがわ市内では一番古い寺と言える。市内で現存する寺の中では、丹生大谷の「釈王寺」が古くて、725年僧「行基」による創建とされていています。
すぐ近くには、この寺より前にできたと思われる「杉尾神社・岡前古墳・岡前地神社古墳(全長90mで県内5番めの大きさ)」などが西の丘にある。江戸時代の伝承記録「三代物語」によると、杉尾神社の祭礼は千光寺が執り行っていたとあることと、千光寺橋の存在により、白鳥廃寺は「千光寺」ではないかと言われている。しかし、「千光寺」「高松廃寺」とも創建と白鳥廃寺の存続期間が並行していることから、いづれも後継の寺とはいいがたい。
高松廃寺
白鳥北池 秋葉山西南山麓/大日古墳の東側 蜜柑畑の中
739年に創建されたといわれ、1583年長曾我部に焼かれ廃寺となった。礎石がほとんどないのは別の寺を建てる時に使われたのが原因と思われる。
秋葉山に「金鶏伝説」があり、泥棒が金鶏を盗むのを見た小僧が殺され、大日山古墳の南側すそ野にあった大きな木の元に埋められたという内容であるが、そのお墓も昭和中頃まではあったが今は見当たらない。名残として「小僧」という地名と西の橋にその名が今もある。「金鶏」というのは寺院の飾り(高松廃寺/白鳥廃寺のものか?)か、おみこしの上にある「鳳凰」のことではないかと思われる。
庵の谷遺跡:秋葉山東山麓
「庵の谷」は六車哲郎氏の家の西側の谷に昭和中頃まで庵があったのでそう呼ばれている。写真は、昭和中頃牛小屋を建てるため整地中に五輪塔が50基余り見つかったものの一部。これらは歴代住職の墓と言われ、元々の庵は墓守の住居といわれている。五輪塔は凝灰岩でできておりかなり古く17世紀以前のものとおもわれる。
大日山古墳
白鳥北池 秋葉山麓西側の小高い丘
山頂に写真の大日如来を祀っていたことからこの名前が付いた。前期古墳時代のもので、前方後円墳 全長30m余り。原間に住んでいた豪族の墓と言われている。
藤井古墳:白鳥藤井
現在市内で石室の内部が見られる古墳は数少ない。ここは一番簡単に内部が見られるところであるが、くずれかかっているので外から見るのみ(中をみるためにはライトが必要)。この古墳は後期のもの。
西山へ行く昔の幹線道がすぐ上を通っており、下の星越峠と言われていた。峠には茶屋があり、今も陶器のかけらなどがあるという。その先の鞍谷には妖怪伝説で有名な「首切り地蔵」があったが、今は葬祭場工事のおり、片づけられ行方不明となっている。
岡前古墳/岡前地神社古墳/杉尾神社のある丘
岡前地神社古墳は県内5番めに大きい前方後円墳(全長約90m)
原間(わらま)古墳群
原間池西南及び、その西方300mほどの丘周辺にたくさんある
原間地区は、4世紀から明治の初めまでは白鳥の一部であり、5世紀から7世紀にかけては地方官庁があったと思われるところで「垣の内」などの地名がある。多くの有力者の古墳があることからも裏付けられる。古墳は10m~30mの円墳が多い。一部は昭和まで石室に入れるものが2つあった。ドラマ「裸の大将」に泥棒の隠れ家として映っている。「わらまん堂」は高速道路により埋められたため、その記念碑として建てられたもの。
東方に「神越古墳」「桃山古墳」など、近くにはまだまだ未発見の古墳が多くあると思われます。
遺跡
遺跡についてはすでに埋め戻されたり、内容をうかがい知れないものが多いが、わかっているものだけを列挙すると以下のようになる。
成重遺跡/四房遺跡/池の奥遺跡/樋端遺跡/桃山遺跡/千光寺遺跡/城泉遺跡
いづれも弥生時代からのもので、当時の山すそで、海岸や川のほとりにあったものが多い。