お寺

 

千光寺:場所/山号/本尊/宗派/住職 

寺元 恵日山舎那院 本尊:大日如来 真言宗御室派 住職:松村賢澄 氏

訪問時すぐ見えるのは写真左下講堂(大師堂)と護摩堂である。本堂は講堂前千光寺池の上手にある。

千光寺池の中島には白鳥地区では珍しい、写真左上にある弁財天をお祀りしている。恵日山には西国三十三観音霊場巡りがある。

 開基については諸説あり、「恵日山千光寺来由記」によると弘法大師が9世紀初めころにおとづれ、大日経を経ヶ丸(現在の秋葉山?)の山頂に埋め、ここに仏宇を創建したという。また、一説には「醫王山薬王寺薬師院(現在の「與田寺」)」を元白鳥神社の南側に建立した際に、小寺として「高松寺」「地蔵寺」とともに千光寺も建てられたというものがある。その他に「白鳥廃寺」ではないかという説もあるが、これは千光寺橋が近くにあるということが根拠となっている。また、秋葉山の南東山麓にあったという説もある。すぐ北側の「庵の谷」から古い五輪塔が50余り出土したが、これらは歴代住職の墓と言われ、その寺が千光寺なのか、白鳥廃寺のものかと言えば、より近い千光寺説の信憑性が高い。「寺々由来」によると長曾我部に焼かれたのち、16世紀末に現在位置に再興されたようである。裏付けるものとして本堂前に樹齢500年に余る松の木があったが、昭和に枯死した一部が今も衝立として残っている。 先代住職「松村裕澄」氏は戦後「恵愛学園・恵愛保育園・白鳥園」などを設立して広く社会貢献した。現在は、「福祉法人恵愛事業団」として存続している。また、総本山「仁和寺」の第45代官長(門跡)も務めた。 余談ではあるが、先々代の副住職「両児瞬礼師(ふたごしゅんれい)」が当地手袋産業のきっかけを作ったことは周知のことで、現在白鳥神社裏の松原に顕彰碑がある。お墓は千光寺歴代住職の並びにある。

右:本堂裏にあった樹齢500年以上の松の木の写真とその木で作った衝立/左:千光寺池改修時に出てきた古い墓群
両児瞬礼氏の墓
東照寺(田の口薬師/おやくっさん) 場所/山号/本尊/宗派/住職

 白鳥城泉 月光山青宝院薬師坊/瑠璃山薬王蜜院 薬師如来  真言宗善通寺派 住職:今雪哲哉 氏

 開基は、739年僧「行基(7世紀後半から8世紀中頃にかけ、畿内や中国(東四国も含む)で数多くの寺院やため池・橋の建設などを行った)」により、現在の田中神社(当時の「白鳥神社」)の南に「醫王山薬王寺薬師院(現在の「與田寺」)」を別当寺として建立した際に、その小寺として「高松寺」「地蔵時」「安養坊」「観音坊」などとともに「薬師坊」として建てられた。 821年に、空海がここにおとづれ、和(讃岐)・唐・天竺の土で薬師如来を作り本尊とした。837年空海の親戚で高弟の「実慧/実恵」が訪れ、「日本三大薬師」と名付けた。写真左上参照 長曾我部元親が虎丸城攻めのおり、寺に火をつけようとして来たとき体が動かなくなり、本尊に寺の造営を約束して許しを得たという伝説と、16世紀末頃に領主の生駒親正が領内巡視で馬に乗り、この寺の前に差し掛かかったとき馬が動かなくなった。原因は馬に乗ったまま挨拶もなく通り過ぎようとした行為にあったようであるが、一説には寺は檀家がないので困窮を見かねた薬師如来が領主に寺が立ち行くよう依頼したというのもある。このことにより15石寄贈したとの伝説がある。生駒親正失礼説が本堂に数枚のきれいな絵で鴨居に掲げられている。薄暗いので見落とししないようにしたいところである。長曾我部元親の逸話には「千光寺」や水主の「延光寺」にも似たような話があるが「延光寺」説によると、本尊の体が半分(火をつけられたため)黒くなったといわれ最も信憑性がある。

庫裏の南側にある枝垂れ桜

 

神護寺場所/山号/本尊/宗派/住職

白鳥西下 白鳥山大宝院 天台宗 不動明王   住職:大守俊裕 氏

 開基は、一説には丸亀生まれの円珍(後に園城寺住職:智証大師)により8世紀中ごろに創建されたというものと、役行者(7世紀中ごろの人)とも言われているが、この人は山岳信仰の祖と言われていることからその系統の宗派ということだと思われる。いづれにしても再興までの期間が長すぎよくわからない。白鳥田中にあった「神宮寺」が1583年長曾我部に焼かれた跡地に1676年に聖憲阿闍梨により、修験道の寺「宝光院」として再興された。現在の地には1818年に8代目が再建し、9代目が「大宝院」と改めた。明治になり一時廃絶なったが、明治10年に天台宗の寺として現在名で復興した。

本堂入口北側にあるこのお地蔵さんは、人知れずにひそかに願掛けをすると歯痛が治るといわれています。

地区内では一番大きいお地蔵さん

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