風土・風習・文化

当地は、弥生時代から開かれた地であり、その長い歴史の中で生まれた風習や行事など数多くありましたが、現在は人口の減少、核家族化などにより伝承の場がなくなり、古老と呼ばれる物知りな人たちもいなくなってしまった。一部は本や歴史書などからうかがい知ることができるが、それらに記載されてないことも多々あるので、ここに聞いた話や見たこと・体験したこと・行事等を記録として残します。

原典/出典:聞き取り・体験・三代物語・白鳥町史・白鳥風土記・大内夜話・香川県史・地質学会誌・埋蔵文化財調査報告書・歴史民族資料館書籍など

精米の話

弥生時代となり米が栽培されるようになった。最初は玄米を食べていたと思われるが、いつのころからかはわからないが、木臼→石臼に入れ杵(棒型)で精米(米の薄皮を剥ぐ:糠)をして食べるようになった。これは昭和30年ころまで当地では各家庭や精米所で行われていた。精米所と言っても「水車小屋」のことで、藤井の間島家・下中村の藤井家などがあった。第2次大戦中は主婦や子供たちの仕事として一升瓶に入れ木の棒でついたりしていた。大正時代以降は蒸気機関・内燃機関・モーターを動力とした精米所ができ始めた。(寺元の六車家・湊の六車家など)精米所は製粉(つくから、回転臼によりより細かく)も行うようになった。米粉・小麦粉などができ、食の多様化につながった。(家庭用のひきうすも考案され製粉できるようになる。→昭和中期まで) 今の精米機(削り式)は米だけを入れるが、以前の機械(摩擦式)ではより早く糠がはがせるように、石粉をひとつかみいれていた。この辺りではランプロファイヤーに行く手前の岬にある岩の粉をよく取りに行った。それでも二斗当たり40分くらいかかった。

精米所とうどん

「うどん」は空海が唐より伝えたことで当地でも古くから食されていたようである。農家では自分で小麦の製粉は難しいので、製粉所へ買いに行くか家でとれた小麦をもっていって、手数料を払って換えてもらっていた。さらにその場で「はんぼ(小型の浅いタライ)」やタライに小麦粉と水と塩を入れ、ちゃっちゃと練って、うどんの生めんを2~30分で作ってくれるようになった。今みたいに足踏みしたり、寝かしたりはなかったがとてもおいしかった。その後製粉所は製麺所へと拡大し、生めんからゆでめんを玉の単位で販売するようになる。

昭和40年代であったか、愛宕山南側の湊川に竹淵というところがあり、此処で「たらいうどん」の露店ができ一時はやった。(徳島の御所のたらいうどんはすでにあった)

そういった経過により、讃岐のうどん屋には製麺所が今も多くある。香川県は戦後、莫大な研究費を投じて「おいしいうどん」つくりを奨励したので、今の「うどん県」がある。

つづく

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