地名

「しろとり」の地名の由来

「白鳥」の元祖は、「日本武尊(やまとたけるのみこと)」が東征の帰り、「伊吹山」の戦いでの負傷が原因で、伊勢の能褒野(のぼの/三重県亀山市)で亡くなり葬ったが、父である第12代景行天皇が奈良の橿原市に陵を造った。後にその偉業を称え河内の国「旧市(ふるいち/羽曳野市古市)」に巨大な前方後円墳を造った。これを「白鳥陵」という。伝説では亡骸が、能褒野より白鳥となり橿原・旧市に至り、さらに飛び立った(地名:「はびきの」の由来)と云われている。その先が全国にある「白鳥/白鳥神社」の始まりである。

これは、景行天皇の皇子(59人と伝われている)や子孫などを各地の「国造(現在の知事)」に任じて大和国統治地域の拡大を図った。「国造」は任地に「白鳥凌」を分祀して、日本武尊の勇名を背景に統治を進めた。讃岐の国には、4世紀末に日本武尊の弟「神櫛王(かみくしのみこ)/東讃」と皇子「武殻王(たけかいこおう)/中讃」が国造りとして派遣され。最初に任地である当地・湊川尻の汽水域に近い海岸に「白鳥凌」を建てた。後に拝殿ができ、これが「白鳥神社/白鳥神宮/白鳥大明神」などと呼ばれるようになり、地名として「しろとり」が定着した。神櫛王の墓は牟礼町/武殻王の墓は綾川町陶にあるという。

ちなみに、「しろとり」は岐阜県/香川県/徳島県/広島県などに多く、元祖をはじめその他の各地は、語感の良い「しらとり」を呼称するようになった。

原間(わらま)にある白鳥神社

高速道路の建設により立ち退き、現在の地に再建された。この神社は山崎家により祀られてきた。横に「わらまん堂」も祀られている。原間の伝説によると、元祖はこちらで大水により、白鳥に流されて、そこで再建されたといわれている。これは樋端にあった役所が、後に原間に移されたことに起因していると思われる

「しろとり」と周辺の地名

小海(おうみ):漢字が示すように奈良時代は成松神社あたりまでは入江であった(引田は海の中)。

西山・東山:奈良時代から、ここは白鳥地区と同じ行政区「白鳥郷」であって、本来は頭に「しろとり」がついていたが、通称として長年「東山」「西山」と呼ばれていた。明治になり「村」の制度となり『入野山」「与田山」と合併するとき名前の調整がつかず話し合いにより「福栄村」となったそうだ。「入野山」「与田山」もそれぞれ昔の行政区「丹生:にゅう(水銀)が生産される地」や「誉水:誉田(與田)+水主」の山側という意味の地名であった。ちなみに「大川郡」は「旧大内郡」と「旧寒川郡」の一字づつ取りひとまとめにした呼び方であり、「大内」は水主神社の大奥/内裏を示す言葉。「與田」は白鳥八幡宮が長曾我部に焼かれたのち、別当寺であった「白鳥神宮寺」を1600年頃今の地に再興したとき「八幡さん:15代応神天皇を祀った神社のこと(日本武尊より朝廷確立に貢献したということで崇められた/この人は日本武尊の孫であり、子供は仁徳天皇、母は「日本のジャンヌダルク: 神功皇后」)」の送名「與田(ホンタ)天皇八幡麿」から「與田」をとり「與田寺」と命名した。この寺が別名「威王山薬王寺薬師院」と称するのは、739年「行基」により元白鳥神社の別当寺として建てられた時の名前を引き継いでいるという意味です。誉水の八幡さんは「誉田(ほんだ)神社」と言われる所以でもある。

つづく

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