寺社以外の祭禮所

鞍谷(くらたに)の庵 :白鳥藤井/西山

この庵は神宮寺が繁栄していた14世紀ころには既に存在していて、「鞍谷南坊」「鞍谷寺」と呼ばれていた。
現在は無人であるが、時々四国参りの人や坊さん?が泊まったり、住み着いたりしていた。市営の葬祭場ができ、今の場所に移動する前はとても小さなお堂であったと記憶している。前の道は県道から国道になっているが、明治以前は藤井(ふじゅう)から藤井古墳の上を通り、下の星越峠(上の星越峠とは三宝寺から大内ダムに抜ける峠)を越え西山に至る道が幹線であり、峠を下りる途中にあった。峠には茶屋もあったり、近くにはお地蔵さんと五輪塔が山肌を削った台の上に数体あった。この中の一つが、妖怪伝説で有名な「首切り地蔵」である。(今は屋島の四国村に移設されたそうだ。)現在藤井からの星越峠は竹藪と化し通行できない。

薬師庵(下所の庵):湊下所 市内最大の庵

道下から下橋へいたる道のJRの下を潜り抜けすぐに左へ折れ、下所のお伊勢さんの前を通り100mほど西に行ったところにある。前に五輪塔などのある立派なお墓群(北向きのお地蔵さんもある)がある。庭には西向きのとても素敵なお地蔵さんと庵主さん/世話人のお墓が二基ある。
 この庵には、昭和中頃まで庵主さんが住んでいて、「瀬戸内寂聴」風で、比べ物にならないくらい温和な方で近隣の人の困りごとなど相談に乗っていたそうです。今はその方もなくなり、神社を移設してお祀りし、地元の方がお世話しているようです

岡の庵(岡の観音さん):白鳥成重

岡の庵跡地の六地蔵/古い凝灰岩の墓石/手水石

成重のバス停南の十字路を東に50mほど行った突き当りにあった。ここは弥生時代から人が住んでいた所で、近くに古墳などもあったようです。また、南海道に隣接していることもあり、結構有名であり多数の参拝者が訪れていたそうです。戦後まで近くにお祭りに使われる「だんじり」の収納場所があり、そのゴマ(木の車輪)をそばの堀に沈めて割れないように管理していた。観音様は、その後平成にできた集会場に移されてお祀りしています。
このごく近くには、古墳が3基あったが、今は壊されて平地となっている

お地蔵さん

須賀のお地蔵さん(お堂に安置されている)

昔(昭和)お祭りの時、写真上のお堂に子供たちを集め、大きな珠数を車座になって回しながらお祈りをして、そのあとは子供たちにお菓子等が振舞われていました。
 お堂の横に、江戸時代行き倒れとなった人が、須賀に死者が出るような疫病(現在の新型コロナみたいな)が蔓延した折、里人の夢枕に立ち「お墓を建ててねんごろに弔ってくれたら疫病を治す」とのお告げ枷ありそのようにすると、ぴたりと疫病が収まったとの伝説があります。写真左下:墓碑銘「甲斐の国・・・・」とあります。写真下の六地蔵さん二か所は昭和初期まで焼場がありその入り口にあったもので、今も世話人がいて日々きれいな状態に保たれています。

中所(道上)・下所お地蔵さん

左上:中所の北向き地蔵 左下:下所の北向き地蔵   右は中所のお地蔵さんの拡大                    

小さいがお堂があります。二つとも北向きの地蔵さんで、北向きは珍しいとのこと。中所は日頃より近隣の人々により大切にお祀りされています。下所のものは個人宅のものと思われます

その他、地域の皆さんによりお祀りされているお地蔵さん

一般的に六地蔵さんは、昔(白鳥村の時代/それ以前は土葬)の焼場の近くには必ずあったといわれています。写真は千光寺本堂前の六地蔵さんと、その他の地域のいろいろな地蔵さん。
 須賀の墓地には2か所/庚申原/愛宕山中腹など
 六体ある意味は、人や魂を六の苦しみから救うということで一体ごとに、地獄道を救う檀陀だんだ、餓鬼道を救う宝珠、畜生道を救う宝印、修羅道を救う持地、人道を救う除蓋障、天道を救う日光 の使命を持った地蔵菩薩群です。 また、「延命・宝処・宝手・持地・宝印手・堅固意」という名の各菩薩様のセットという説もある
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