神社

 

向良神社(砂糖神さん)
左上は関良助の墓/神社より数百メートル北の道路脇

砂糖の製法を江戸時代に確立した向山周慶(この神社の近くの湊上所に住んでいた)と関良助(奄美大島の人)を祀った神社。「向」は向山、「良」は良助それぞれの名前を組み合わせたもの。
最初は高松藩の財政に貢献したということで、玉藻城内に建立されたが、昭和20年の戦災で焼失したため、現在は高松市松島2丁目にある。
湊の向良神社は、現在位置の少し西の5mほどの丘(耕地整理でもうない)の上に小さな社があったものを現在のところに移設。当時の顕彰碑は湊道下の大鳥居の脇にあるが、内容は写真右の碑と同様。

田中神社(たなかはん)白鳥田中

祭神は日本武尊 ここが四世紀後半に讃岐の国初の国造り「神櫛王(かんぐしおう/日本武尊の弟)」と「武皷王(たけみかつちのおう/日本武尊の皇子)」が着任して、大阪の羽曳野市古市にある世界遺産の一つ「白鳥陵(日本武尊の正式なお墓)」を分祀したところと言われています。その後拝殿ができ白鳥神社となった。
さらに、739年僧「行基」により、醫王山薬王寺薬師院(後の與田寺/東照寺/観音寺など)という寺が別当寺として併設された。のちに空海の進言により神社の別当寺は「神宮寺」と改名された。名前も白鳥大明神・白鳥八幡宮と変遷したが14世紀後半にに湊川の氾濫により流失したときに、安富氏により再建され千を超える寺を傘下にし大いに繁栄したが、1583年に長曾我部元親の虎丸城攻めの時に近隣の寺社とともに焼かれた。このころ領主は淡路島の「仙石氏」であったが、長曾我部に敗れ淡路に引き上げた。1587年豊臣秀吉により、生駒親正が赤穂より移封され領主となり塩田を作り財を成し、その子「一正」らと現在の地に「鶴内八幡宮」「鶴内寺」として再建した。1662年生駒氏は4代目の時内紛が起き改易され、1664年松平頼重が高松藩の領主となり、鶴内寺を廃寺(別当寺として永国寺を建立)とし、神社も祭神を応神天皇から日本武尊を主神とし、名前を「白鳥神社」とした。また、京都より猪熊兼古氏を招聘し宮司とした。(ちなみに現在の宮司猪熊兼年氏は猪熊家18代目)
結果、元の白鳥神社は、「田中神社」として、「神宮寺」もその後「與田寺」として今の地に再建された。「與田」と言うのは。八幡様の祭神「15代応神天皇(日本武尊の孫))」のおくり名「與田天皇(ほむたのすめらみこと)広幡八幡麿」に由来する。全国各地にある「誉田八幡宮」の多くは「ほんだ」と読む。応神天皇は全国をほぼ統一した武人ということで。571年以降に八幡信仰が始まった。
岐阜・徳島・広島県をはじめ全国に白鳥神社は百以上あるが、日本武尊の皇子たちが国造りとして派遣された地で分祀されたものや、さらに分祀されたものなどで、原間にも高速道路の北側にある。「しろとり」と古来の言い方で呼ばれるものはとても少ない(主なものは4ヶ所と言われている)。元祖「白鳥凌」も、語呂の良い「しらとり」という。

福栄の西山にある「別宮八幡宮(べっくしさん)」も正式には、「白鳥八幡宮別宮」であり。湊川の氾濫によりお参りに行けないことや、本殿の流失に備えて建てたものです。(現在のものも最初より少し西に建てられています)

梨木神社(お稲荷さん):白鳥樋端
祭神:宇迦御魂神(うたのみたまのかみ/農業の神様)この神様は冬は「山の神」で春になると里に下りてきて「田んぼの神」となり、秋に収穫が終わると山に帰っていくが、人々には神様が見えないので同じような行動をする狐がお供と思い込んだことにより、狛犬の代わりに鳥居の下にきつね一対が据えている。
 ここが「梨の木神社」と呼ばれているのは、弘法大師と「食わずの梨」の伝説※に由来しているようです。神社の前の道は奈良時代からの南海道があり、弘法大師も何度か通っているようなのでこのような伝説に由来する名前になり語り継がれているようです。
 手前の大きな木は棺おけに使われていたという「栴檀(せんだ)の木」。昭和にはここにフクロウが住み着き夜中に泣く声が遠くまで聞こえていました。また。木(むく)の大木がありました。
 ※「食わずの梨」とは、ある日坊さんがここを通りかかると梨の実がなっていたので、そばにいた老婆に「のどが渇いたので梨を頂けんか」と言ったところ「乞食坊主に食わす梨はない」と答えたので、怒った坊さんが法力で梨を硬くしてだれも食べられなくした。という話でこの伝説は各地にある。近くでは屋島にもあるそうだ。しかし、弘法大師をそんなことに結び付けるいわれもないと思うがいかがなものだろうか?当時の梨は今と違って、小さくてとても硬くジューシーでなかったはずだ。(柿やミカンも同様)
白鳥大神宮中所のお伊勢さん):湊道下
中所のお伊勢さん                  
伊勢神宮下所のお伊勢さん
下所のお伊勢さん      
二つの神社は、ともに伊勢神宮のお札「照大御神(あまてらすおおみかみ):皇室の始祖」神宮大麻(お札)を売る人「御師(おんし:伊勢神宮/他はおしと言う)」の駐在所であり、伊勢神宮の祭壇を備えお祀りしていたため、その後神社となった。
子守神社白鳥下中村
天水分神は(あまのみくまりのかみ)とも言われ、「みくまり」の音から「みこもり(御籠)」と訛り、「御子守」となり子を守り育てる子安の神として「子守神社」と変化した。元々は雨を降らし豊作を導く神様。
 昭和中頃までは凝灰岩の古い五輪塔がいくつかあった。また近くには豊島石の祠などがあり、かなり古くよりあったものと思われます。
伊保神社(権権さん)白鳥笠屋地区
 
左上写真:尖ったかんざし山と中央いぼん岳の手前にあるこんもりした中腹にある                  

祭神:阿菩大神(あぼのおおかみ)/式内 伊佐賀神社)出雲市の神社の分祀社は「笠江山(伊保嶽:イボンダキ)233m」の中腹にある。笠屋地区の祭神

聖天神社(聖天庵/お聖天さん)

白鳥西藤井  祭神:大聖歓喜天 開基:19世紀中頃  

現在社殿は傷みが激しく、西中村の集会場西横でお祭りしている。
 昭和中頃までは、庵主?が住んでいて、夜中にも祈祷を行っており太鼓の音がよく聞こえていた。
秋葉神社-1:白鳥秋葉山山頂

ご祭神は火の神として知られる迦具土神(かぐつち のかみ)

縁結びや家内安全、子宝、子育て、子孫繁栄など、主に家庭に関するご利益を願う/江戸時代中期に遠州秋葉山本宮を分祀したもの(元々は越後にあったものを徳川家康が分祀した)

社の中には秋葉神社のお札が奉納されている。  左下は北の峰にある祭神                        
 
秋葉神社-2:白鳥小中学校東
 
金毘羅神社:田の口
社殿は三石山のふもとにあり、周辺は花崗岩の巨石が多い
東照寺の住職が建てたといわれている

以下 拝殿のない著名な神社

愛宕神社/如体神社:

笠屋地区から見た写真:左から2番目のこんもりしたところが如体さん/中央が愛宕山(119m)/手前は湊川             
愛宕(あたご)神社白鳥四房愛宕山山頂(下中村) 東・西・下中村・成重の祭神:帆火産霊神 火伏/風
愛宕山白雲寺(京都)から勧請 ご神体は「勝軍地蔵」と言われているが、今は祠ともどもない。平成になるまでは夏祭には子供たちが各自治会ごとに三方から松明をもって隊列を組み山頂に上がった。最盛期には60人余りが参加して山頂でお参りした後、炊込みご飯のむすび等が振舞われた。現在は、白鳥神社宮司が子守神社から愛宕山に向かって祭祀を行っている
如体(にょたい)神社
白鳥四房(東中村) 妙体山山頂(愛宕山麓西方/竹淵の上)
 讃岐に流罪となった清少納言が、わが子が水で苦労しないようにと長尾の妙体山に竜神をお祀りしたものを分祀したといわれている。
竜神社
最初は須賀にあったといわれているが、現在は下所の庵に安置されている

 

白山神社(下の権現さん): 湊須賀

18世紀初頭 河野平六氏 建立  氏神

すぐ東に「一石五輪塔」が水路脇草むらの中にある。意外と小さい

地神(じじんさん)

土地神さんの一例/祭壇右の5角柱  田中神社境内

東かがわ市の古くからある部落には必ずある

五角柱に「埴安媛命 ・倉稲魂命 ・大己貴命 ・天照大神 ・少彦名命」の五神名を刻む。古くより東讃地方をはじめ淡路島(兵庫県)のほか、岡山県などに多い。お祭りは春と秋の社日に祀られた。社日とは春分・秋分に最も近い戊(つちのえ)の日であり、春は五穀豊穣を祈願し、秋は収穫に感謝する。今でも社日に頭屋(世話役:集落内での輪番制が多い)が酒・肴などをふるまうところもある。

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