「しろとり」の地名の由来
「白鳥」の元祖は、「日本武尊(やまとたけるのみこと)」が東征の帰り、「伊吹山」の戦いでの負傷が原因で、伊勢の能褒野(のぼの/三重県亀山市)で亡くなり葬ったが、父である第12代景行天皇が奈良の橿原市に陵を造った。後にその偉業を称え河内の国「旧市(ふるいち/羽曳野市古市)」に巨大な前方後円墳を造った。これを「白鳥陵」という。伝説では亡骸が、能褒野より白鳥となり橿原・旧市に至り、さらに飛び立った(地名:「はびきの」の由来)と云われている。その先が全国にある「白鳥/白鳥神社」の始まりである。
これは、景行天皇の皇子(男子59人、女子を含め80人と伝われている)や子孫などを各地の「国造(現在の知事)」に任じて大和国統治地域の拡大を図った。「国造」は任地に「白鳥凌」を分祀して、日本武尊の勇名を背景に統治を進めた。讃岐の国には、4世紀末に日本武尊の弟「神櫛王(かみくしのみこ)/東讃」と皇子「武殻王(たけかいこおう)/中讃」が国造りとして派遣され。最初に任地である当地・湊川尻の汽水域に近い海岸(現在の田中神社のあたり)に「白鳥凌」を建てた。後に拝殿ができ、これが「白鳥神社/白鳥神宮/白鳥大明神」などと呼ばれるようになり、地名として「しろとり」が定着した。神櫛王の墓は牟礼町/武殻王の墓は綾川町陶にあるという。
ちなみに、「しろとり」は岐阜県/香川県/徳島県/広島県などに多く、元祖をはじめその他の各地は、語感の良い「しらとり」を呼称するようになった。
原間(わらま)にある白鳥神社
高速道路の建設により立ち退き、現在の地に再建された。この神社は山崎家により祀られてきた。横に「わらまん堂」も祀られている。原間の伝説によると、元祖はこちらで大水により、白鳥に流されて、そこで再建されたといわれている。これは樋端にあった役所が、後に原間に移されたことに起因していると思われる。
「みなと」の地名の由来 湊地区は7世紀ころまでは秋葉山の裾野のみでそれ以北は汽水域であったが、その後湊川による堆積が進み人が住めるようになった。7世紀後半に官営寺が白鳥廃寺のところに建立された。この時現在の山下団地東側に「ハネ」と呼ばれる船着き場ができて、資材の搬入や、お参りなどの人々でにぎわい始めた。これが「湊」と呼ばれるようになった所以である。16世紀ころには須賀の砂州に漁師が住み着き(最初の入植者を「須賀7人衆」という)17世紀ころには湊川西岸側の汽水域は下橋まで後退した。(1600年頃下橋の先は現在の松原が大きな砂州で、「鶴内神社/鶴内寺」:現在の「白鳥神社」の前身)への参道だった。湊川東岸側は18世紀ころ迄後退しながらも汽水域が続き「湊水入」と呼ばれた。湊地区は現在の校区とは異なり、東は現在の白鳥神社のお旅の道路/北は「かんしょば」裏-大路織布-芝居町西側-栄国寺/南は高高田/西は「帝国製薬」東道路までととても広い村であった。
集落をまとめた単位 {しろとり}は白鳥神宮ができた時から、氏子の行政区域として神宮を中心として南側から上地区・中戸地区・下地区と分けられ、それに集落が増えたのをまとめて、それぞれ現在の一支部から三支部となった。 湊地区が氏子となったときに、同じように上所(そらじょ)・中所(なかんじょ)・下所(しもじょ)ができ、続けて陸地が広がるにつけ西所・清水・須賀が加わった。明治の中頃に上所・中所・西所(にしんじょ)・清水をまとめて四支部、下所・湊水入を五支部、須賀を六支部とした。 地名-2 白鳥は湊川の氾濫・堆積によりできた土地なので、形態的に「原」が付くところが多い。 また、神仏に由来の名前もある。以下に地図上に展開してみました。
南から順に解説 1.権現原(ごんげんばら) 笠屋地区 「笠江山:233m」の中腹にある笠屋地区の祭神「揖保神社/通称権現さん」から見下ろすと一望できることに由来する。 2.東原・西原 藤井(ふじゅう)地区 藤井地区で国道318号線を挟んで東と西の平野に区切っている。 3.市ヶ原(いちがはら)山下(やました) 西中村・東中村・下中村地区 西中村と東中村の間に奈良時代から幹線道路があり、その沿線で市が開かれたことに由来する。(面積が広い) 山下:愛宕山の裾野 4.浅原(あさばら)・高原(たかばら)・荒神原(こうじんばら) 西中村・下中村・成重の境付近 浅原:下中村西部の窪井手によって展開された地域 高原:成重地区の「岸の上」に続く堆積地で小高くなっている。江戸時代にはこの北側に湊川の流れがあった。 荒神原:岸上と高原の間で、荒神さんが祀られていた。 5.岸の上(きしのうえ)/岸の下(きしのした) 成重地区 湊川が「岸の下」をを流れていた時の名残で、堆積により自然にできた堤防を「岸の上」という。 この地を含め東側が「成重」地区。福家成重により開墾された地。 「岸の上」北端の辻上家の西側に「ハネ」と呼ばれる石積みがある。 6.樋端(といばな)/前屋敷(まえやしき)/神越(かんごし) 樋端地区 原間池ができた時、樋端地区・中戸地区の田畑を灌漑するため、湊川の上に樋をかけたその東端に当たるためこの名前が付いた。 前屋敷は、国府があったところと言われている。(後の原間の垣ノ内と同様) 神越:白鳥から大内側への道は秋葉山の南北と、その上手にある山越えを「上越」と言ったものが「神越」になったという説と、国司である神櫛王の国府が樋端から原間に移ったため、その名がついたという説がある。 7.四房(しぼ)/谷(たに): かんざし山から見下ろしたとき、裾野の展開が房の飾りのように見えたことによる。 谷は、湊川が大蛇行していた時に、三日月湖のようになった地に、四房川など東側の山中より出た砂礫の堆積地。東の山中には大谷というところもある。古代より山側に多くの遺跡がある。 8.中戸(ちゅうと) 白鳥大神宮のすぐ南側(当時は現在のように新川はない)で、上地区と下地区の間にある集落という意味 この地の東西の道が奈良時代からの幹線で、西の大内側は中筋という。 9.原・北原(はら) 湊川の蛇行・氾濫で田畑も少なく原野に近かった。18世紀後半新川ができたことにより水害がたびたび発生していた。 10.寺前(てらまえ)/庵の谷(ああんのたに)/北池(きたいけ) 原・北原地区 寺前の寺とは9世紀初頭にできた「千光寺」を指す。千光寺は秋葉山山麓の現在の江元家付近にあったといわれている。1583年長曾我部に焼かれたのち現在位置寺元の恵日山のふもとに再興した。 庵の谷は、元千光寺歴代住職の墓が50基ほどあり、それを管理するための庵が昭和まであったため。 北池:原間池の北側にある池は北池と呼ばれその周辺ということでこの名前になった。この北方秋葉山麓には739年に建てられた「高松寺」跡がある。これも長曾我部に焼かれた。 11.寺元(てらもと)/庚申原(こうしんばら)/切抜(きりぬけ) 寺元の寺は現在の千光寺。また、白鳥神宮の別当神宮寺/威王院の東方でもある。 庚申原はこの地に庚申さんをお祀りしていたことに由来する。昭和40年頃までは庵があった。 切抜は1775年の大雨により、禅門池が決壊し新川ができた時、湊川手前の300mほどを人手により切削し排水路を作ったことによる。 12.東下/西下 白鳥神宮の北側(湊川下流方向)に位置したことによる。名前がついたころは海岸であった。 13.城泉(しろいずみ)/田の口(たのくち) 城泉の城は久詰池東にあった「白鳥城」、泉は井戸のあったところ 田の口:白鳥城の北側に田んぼができ始めたころ、入口にあたったため。 14.高高田(たこだ) 湊川下流東岸の汽水域で、14世紀頃の大洪水により土砂が堆積し、水田ができた地域 15.山下(やました)/岡前(おかまえ)/向良(こうら) 上所 山下:山とは寺山(高丸山→寺山→秋葉山)を指す。秋葉山系に寺は昭和までに延べ4ケ寺あった、 岡前:岡は香川県で5番目に大きい(全長90m)前方後円墳を指す。その東側手前 向良:江戸後期に砂糖神さん(向良神社)があったところ。 16.道上(みちうえ)/道下(みちした) 中所 下所/西所は前述通り 中所は、概ね湊大橋より西に至る県道の南北で南側が高くなっているので上と表現 17.清水(しみず) ほぼ東西の中ほどに泉があり、生活用水として昭和の中頃まで使っていたことによる。町水道の取水井戸ができてから。水が出なくなったようです。 18.東須賀/西須賀 最初は地蔵堂のあたりから人が住み始めたが、湊川河口や東洋紡などができ人口の増加により東西に分離した。 しろとり」と周辺の地名
小海(おうみ):漢字が示すように奈良時代は成松神社あたりまでは入江であった(引田は海の中)。
西山・東山:奈良時代から、ここは白鳥地区と同じ行政区「白鳥郷」であって、本来は頭に「しろとり」がついていたが、通称として長年「東山」「西山」と呼ばれていた。明治になり「村」の制度となり『入野山」「与田山」と合併するとき名前の調整がつかず話し合いにより「福栄村」となったそうだ。「入野山」「与田山」もそれぞれ昔の行政区「丹生:にゅう(水銀)が生産される地」や「誉水:誉田(與田)+水主」の山側という意味の地名であった。ちなみに「大川郡」は「旧大内郡」と「旧寒川郡」の一字づつ取りひとまとめにした呼び方であり、「大内」は水主神社の大奥/内裏を示す言葉。「與田」は白鳥八幡宮が長曾我部に焼かれたのち、別当寺であった「白鳥神宮寺」を1600年頃今の地に再興したとき「八幡さん:15代応神天皇を祀った神社のこと(日本武尊より朝廷確立に貢献したということで崇められた/この人は日本武尊の孫であり、子供は仁徳天皇、母は「日本のジャンヌダルク: 神功皇后」)」の送名「與田(ホンタ)天皇八幡麿」から「與田」をとり「與田寺」と命名した。この寺が別名「威王山薬王寺薬師院」と称するのは、739年「行基」により元白鳥神社の別当寺として建てられた時の名前を引き継いでいるという意味です。誉水の八幡さんは「誉田(ほんだ)神社」と言われる所以でもある。
つづく