歴史

白鳥地区と周辺の歴史概

年代については、基本的に西暦(ユリウス暦)を使用しています。明治以降は元号も使用。

縄文時代
白鳥地区に人が住み始めたのは縄文時代と言われています。
五名では3000年ほど前の石器や遺跡が見つかっているそうです。白鳥では大和民族が大陸より渡来してくる前には、アイヌや南方系の人たちが住んでいたという説もありますが、遺跡の破壊や埋もれたりで目には見えなくなっているものも多くなっています。また、湊川の氾濫により、流されて無くなったものも多くあります。まだまだ見つかってないものも結構あるように思います。成重遺跡のように一つの遺跡でも何層にもなり、1000年以上重なっているところもあります。

弥生時代(BC3世紀~古墳時代:7世紀)
農耕民族がなだらかな丘陵地に住み始め稲作に従事する。
発掘など調査により分かった遺跡・古墳

現在わかっている遺跡分布

出典:白 鳥町町 内 所 在 遺 跡 発 掘 調 査 報告書 2002-03/白鳥町教員委員会
上記図に+岡前古墳・岡前地神社古墳(発見が遅かったため)
奈良時代の南海道  梨の木神社の案内図


白鳳時代~奈良時代
大和政権の支配下にはいる(国造りの派遣)/住民は「祖・庸・調」の対象となる/国・群・郷:讃岐の国/大内郡/白鳥郷と称される。役所が樋端地区や、後に原間地区にできる。このころ湊地区/田高田等はまだ海(汽水域)であった。
南海道ができる(相生~小海~東山~笠屋~成重・中戸~中筋)
稲作が定着する/水田の開拓/配布/湊川の氾濫などにより耕地の拡大・海岸線が北上
仏教の布教が始まる/官営寺/民営寺院の建立が始まる:行基集団
このころの白鳥地区の代表的な施設
白鳥廃寺/白鳥神社(後に白鳥八幡宮となる)/醫王山薬王寺薬師院+5小寺

国造りの赴任風景  原間池の案内図-部分  菅原道真・紀貫之などもこの道を通ったかもしれない


平安時代

稲作などにより人口が増え、班田収授法制度(国民に田畑を分け与える制度)崩壊→田畑が足りなくなり開墾者取制度→荘園制度に発展:貧富の差拡大(豪族・別当・寺院・神社)→武士の台頭につながった。
仏教も宗派が拡大/当地は空海の影響大→820年ころ千光寺建立/醫王山薬王寺薬師院は白鳥神宮寺と改名

隆起と堆積により海岸線が北上:耕地面積の拡大/南海道も中山峠→帰来→田高田→城泉→寺元→中戸→寺前/神越に

南北朝時代/室町時代
国司など中央官庁の支配から、武士の台頭により中央の勢力争い(応仁の乱など)が地方に拡散(管領・地頭・)讃岐は細川管領の支配となり、香川・十河/神崎氏などが代理統治。その家臣安富氏が、水害にあい流出した「白鳥八幡宮」/「神宮寺」を再建。寺社領であった福栄地区与田山に「護良親王(南朝:後醍醐天皇の皇子)」が落ちのびてくる/「天皇」という地名。新田貞義・楠木正成と争った足利尊氏が、室町幕府をつくり完全に武家の支配となる。阿波の三好氏がこれを支えた。
砦が作られるようになった。「虎丸城(護良親王が一時期籠った)」長尾の「昼寝城(神崎氏)」津田の「雨滝城(安富氏/六車氏)」など。
仏教は各宗派の寺院が建立され、盛衰を繰り返す。

鎌倉時代
平家から源氏の支配に代わる。源義経屋島の合戦に向かう途中、白鳥八幡宮に参拝

安土桃山時代
領主の移封により、大規模な人の全国移動が始まる
武士による支配→東かがわは、引田に「仙谷氏」が「引田城」を造った。「白鳥城(白鳥玄番)」1583年長曾我部の侵略により、ほとんどの神社・寺院・街並みが焼かれる。仙谷氏は去り、秀吉の家臣であった生駒親正が赤穂より入封され引田城城主となり、その子「一正」とともに白鳥八幡宮を松原に「鶴内八幡宮」「鶴内寺」として再興する。安戸池・伊座・小磯などに塩田を造り、現在の橋本氏・棚次氏など製塩の職人を最初は20人ほど呼び寄せた。製塩業や関連輸送業などで引田・松原・湊などが繁栄する。
別宮八幡の東にあった池を中村の住人らが大改修して、宮奥水利組合(宮奥たづ)を作った。のちに高松藩も手を入れ、現在の宮奥池となった。当時の水路は、馬目先・白鳥美術館の山すそを通り(まだ堀切はなかった)、上の水車「間島家」に至り、水土間(すいどま)を通り大井手と呼ばれる用水路となり、稲荷神社まえで原間水利と合流して久詰池・田高田・白鳥駅前経由中川となっていた。

江戸時代
生駒氏4代目がお家騒動を起こし改易となり、約2年間伊予の支配を受けたが、1640年松平頼重が高松藩藩主となり、「鶴内八幡宮」を白鳥神社に改め、猪熊宮司を招聘する。「鶴内寺」を解体して「永国寺」を造る。住職を大窪寺に追放。仏閣・仏像などを周りの寺に分与する。八幡様関連のものは、西山の「別宮八幡宮」に引き渡す。
高松藩・白鳥神社の影響は大きく、当地区をはじめ三本松・引田・原間の地区も氏子となった。創立イベントとして与治山で巻狩りが行われ、約5000人が参加したという。その時に「武道餅」が誕生したとの言い伝えがある。また、猪熊兼古宮司が、京都より「虎頭」をもってきて二支部に導入。当地でも1700年すぎに浄瑠璃が大変人気となり、その一つ近松門左衛門の「国姓爺合戦(
こくせんやかっせん)」を取り入れたのが現在の「虎頭の舞」となった。各地区も「獅子舞・奴・鉄砲・だんじり」などを秋季大祭で行列するようになった。
相撲や芝居・連歌などの町人文化が隆盛となった。湊川下橋のたもとと、西藤井にある「聖天庵」下などに今も「相撲取墓」が残っている。芝居小屋も大変大きなものがあったようだが火事で焼け、今は地名として「芝居町」が残っている。(旧本町小学校・西南の角から南の鳥居あたりまで)


江戸時代に限らないが天災が多く、干ばつ・水害に大いに翻弄された。そこで以前は小さい池などを造ってしのいでいたが、それでも足りないため「禅門池」「新池」などやや大型の池を作るようになり、特に「原間池」は小さな池と畑であったところを大改修して現在の規模にした。周辺の天水では満水にならないので、藤井地区から宮奥水利を分岐して現在の湊川西岸の山裾伝いに2Kmほどの水路を造って導水した。これを「かけ井出」と言い、香川用水が出来る迄使用していたもので、現在も遺構がある。原間池は東側の堤防が一度切れたことがある。当地の水害として記憶に新しいのは、平成16年が思い起こされるが、1782年8月(天明二年)四房の禅門池が決壊して41名の死者が出たそうで、千光寺本堂脇にひときわ大きな慰霊塔がある。これにより「(白鳥)新川」が誕生した。湊川に接続するために川尻から直線で約300mほど切削したので。この地は「切り抜け」と呼ばれるようになった。


江戸後期には、「向山周慶」「関良助」両氏により砂糖の生産が始まる。讃岐三白と言われる、塩・綿・砂糖と米が主産業となった。これに関連して廻船業者などの富豪が誕生した(江戸屋/丸橋/鎌長など)。白鳥では林家(大庄屋)

明治時代・大正
武士の世が終わり。新政府の誕生となったが、黎明期はいろいろと混乱が続いた。当初、明治2年松平氏が「高松藩知事」→明治4年に3か月だけ高松県→香川県となったが、明治6年徳島・淡路と一緒に名東県(結城県?)→明治8年香川県→明治9年~21年「愛媛県」→三度目の香川県になった。当地は明治初めから23年まで「白鳥村」と「湊村」となった。白鳥村では、最初の学校は東中村の鍛冶屋西側にできた。焼場は愛宕山中腹にでき、役場は・・・・


明治23年「白鳥村」と「湊村」が合併することとなり、村長選挙が行われた。白鳥は田中和史郎氏、湊は定国三郎氏が立候補した。その時田中氏が勝てば「湊村」定国氏が勝てば「白鳥村」にするとの約束があり、初代村長は定国氏になり、村名は「白鳥村」になったそうです。役場は旧白鳥小学校の西門のところに、駐在所が道路を挟んだ西側に建てられた。小学校は令和2年3月まで同じ位置。北校舎のあったところは、元墓地であったらしく幽霊が出ると長らく言われていた。一方、本町地区は伊座・帰来・松原が合併した松原村となり、さらにその後白鳥村との合併話があり、合意したが、翌年合併施行前に「町制」が発布され、松原村は「白鳥本町」となり、合併「白鳥村」は幻に終わった。


産業は、製糖業が盛んで、砂糖の絞小屋が各所にあった。その一部は現在「四国村」に移築されている。よく見かける御影石の砂糖絞用ローラーが作られた。また、綿花の栽培/輸出政策で全国で絹糸の生産が奨励され、当地でも養蚕が盛んになった。製糖は当地の主産業として昭和30年ころまで盛んであった。このころ、農業に関しては牛貸業なるものもあった(村内ばかりでなく徳島からも来ていたようだ。)イギリスの産業革命の影響もあり、紡績や石炭産業が盛んとなり、蒸気機関を使用するなど機械化が取り入れられるようになった。当地でも大路織布(通称:ぺっちん)の設立や、特筆すべきは、千光寺副住職「ふたご瞬礼師(お墓は千光寺本堂北側にある)」がきっかけとなった手袋産業も産声を上げている。(教蓮寺に工場)

白鳥の主産業は、農業→製塩業→製糖業→手袋産業と変遷していった。

タイトルとURLをコピーしました